先日、授業改善研を行いました。学校独自の自主研修でしたが、学識の先生にも来ていただいて、充実した時間を過ごしました。
色々な先生の授業を見たり、自分が授業を公開したりしましたが、10年前まで私は大きな勘違いをしていました。
みなさんは「研究授業」「提案授業」と聞いて、どんな授業を思い起こしますか?
こんにちは。BigWaveといいます。公立中学校の現役教頭です。奇妙な生態を持つ教師「教頭」。そんな「教頭先生」の頭の中を公開します!

- 研究授業では「これまで」を見てもらう。
公開する授業は、「研究授業」や「提案授業」など、いくつかの呼び方があるようです。私が昨年度まで勤務していた市では主に「研究授業」と言っていました。
どの学校も年3回の授業改善研を行っていました。余談ですが、そのための予算も市が用意してくれていて、今思えば非常に恵まれていたんだなと感じています。
10年前まで、私は大きな勘違いをしていました。当時授業を公開した時は、「研究授業は何か新しい取り組みを見てもらう場」と思っていました。
私は英語科ですので、英語を使った楽しいゲームをすればいいと思っていました。
英語を使った会話表現を何度も使用する場面を確保できますし、何より生徒は楽しそうに主体的に授業に参加します。一見すれば良い授業に持っていきやすいです。
他の学校の公開授業を見に行っても、ALTとのTTなどで楽しくゲームをする授業をよく目にしました。
でも最近、そんな授業を授業研で公開しても授業は改善しないなと感じるようになりました。
授業を公開して同僚と交流し、時に学識者に助言をもらう目的は、先生方の授業力向上です。
普段はあまりしない、もしくはやったことがない授業を、授業研のために考えて公開したとします。他の先生方に見てもらい、学識の先生から助言をもらったとして、そこにかけた労力と時間とお金は、どこにつながるのでしょうか?
ALTとの楽しいゲームは毎時間できません。普段の授業でやっていないことに助言をもらっても、どこに生かせるのでしょうか?
指導案を教科会などで練り上げる学校もあるようです。もちろんいろんな先生の視点や助言を、授業案作成の段階で参考にすることで、より良い授業になる場合もあると思います。
でも、授業を公開する先生の授業内容がグリグリこねくり回されて、最終的にその先生の個性が消えてしまったら、元も子もありません。
その授業は誰のための授業になるのでしょうか?授業をする先生の主体性は残っているでしょうか?
研究授業で公開される授業は、公開する先生が日頃から研鑽している授業であってほしいです。
これまでに授業で積み重ねてきた取組みを公開し、同僚に見てもらい、学識に助言をもらえば、それはそのまま、これまでの取組みの振り返りとなり、今後の研鑽の材料になります。PDCAを回すことができます。

研究授業が「新しい何かのお披露目の場」ではなく、「これまでの取組みの経過報告とこれからのチャレンジの検証の場」であれば、労力と時間とお金をかける価値があると思います。
そうならば、研究授業で授業を公開する方は、もうすでにこれまでに何かしらの研鑽・取組みを授業で行っている必要があります。
そんな先生だからこそ、授業を公開するメリットを十分感じられます。授業研では1人~数人の方が授業を公開します。逆に言えば、それだけの人数しか授業を公開できないのです。
「誰がやる?」ではなく「私がやりたい!」と言える授業改善研であってほしいです。
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